2017/08/24

たこ船長と村上春樹の90年代


街角アートボックスの中で、わたくしが一番好きなのがこれです。
フリーモントのあたりのいつも通るとおりの脇にあり、信号待ちでいつも癒される。


首すじに緑のタコがからまっているというのに、船長さんは「まあ世の中、こんなこともあるよね」と、落ち着いたものである。こういう人になりたいものです。

ああこういう船長さんちょっとムラカミハルキ的だなあ。

今、村上春樹さんの『やがて哀しき外国語』というエッセイ集を読み返していて、これがすごく面白い。

これは90年代に村上さんがプリンストンに住んでいたときのエッセイなんだけど、今読むとその時代と今とのなんともいえない距離感がたいへん味わい深い。


「この国を内側からつぶさに見ていると、勝って勝って勝ちまくるというのもけっこう大変なことなのだなあとつくづく痛感する。ベトナムでは挫折があったものの、確かにこの国は冷戦にも勝ったし、湾岸戦争にも勝った。でもそれで人々が幸せになれたかというと、決してそうではなかったようだ。

人々は十年前に比べてより多くの重い問題を抱えて、そのことでいくぶん戸惑っているように見える。国でも人間でも、挫折や敗北というものが何かの節目においてやはり必要とされるのかもしれないという気がする。

でもだからといってアメリカにとって代わるだけの明確かつ強力な価値観を提供できる国家が現在他にあるかというと、これはない。

そういう意味では、現在の一般的アメリカ人が感じている深い疲弊の感覚は、現在の日本人が感じているむずむずした居心地の悪さと裏表をなすものではないかという気がする。単純に言ってしまえば、明確な理念のある疲れと、明確な理念のない居心地の悪さ、ということになるかもしれない。このしんどい選択は我々日本人にとっても、あるいはこれから先大きな意味をもってくるのではあるまいか」(はじめにp21 )


90年代はじめ、日本はまだバブルの最後の時期で、アメリカの都市はスラム化と犯罪でたいへんなことになっていて、日本バッシングが厳しかったとき。
大学村のようなプリンストンで過ごしていた村上さんは、アメリカが「明確な理念のある疲れ」を感じている、と感じていたという。

いまのアメリカと日本を知ってこの文章を読むと、感慨深い。

21世紀になって、「明確な理念」が破産してしまったうえにとんでもない大統領を生んでしまったアメリカ。
20年たってもやっぱり明確な理念はぜんぜんない日本。

都市は見違えるように「再生」したけれど貧富の差はますます拡大して、お金持ちのプレイグラウンドが目につくところに増え、「明確かつ強力な価値観」はまっぷたつに分裂して暴力を生んでいるアメリカ。

それでもそういう価値観が求心力を持ち続けるところが、アメリカという国の面白いキャラクターで。ほんとうに、この国って特殊な国なんだとつくづく思う。

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