2017/11/02

イオラニ宮殿の悲劇(その1)


冷たい雨の降るシアトルですが、脳内では妄想ハワイに戻っています。

今回のホノルルでは、地元ライターの森出じゅんさんのご案内で、イオラニ宮殿ツアーに参加しました。

森出さんは『ミステリアスハワイ』『ハワイの不思議なお話』という著書を2冊出されている、ハワイのエキスパート。
ブログも書かれています。

イオラニ宮殿のドーセントのボランティアをずっとされていて、毎週水曜日の日本語ツアーがご担当です。

マダムMが森出さんの以前からのファンで、日本に講演に行かれたときに会ったのだそうで、この日はツアーのあと、いろいろとディープなハワイのお話も伺えてほんとうにラッキーでした。

イオラニ宮殿の中のツアーはずっと昔に一度だけ参加したことがあったけど、あらためて日本語ツアーでゆっくりお話を伺いながら見ていくと、ハワイのあまりにも悲しい歴史が胸に迫りました。



宮殿の全景を撮るのを忘れたので昔撮った写真を探してきました。

突然ですが、わたしは人の「想い」や「念」は、時々はるばる飛んで来ることがあるし、長い時間がたってもその場所に、なかなか消えない匂いや染みのように残ることがあるものだと思います。

なぜそんなことをここで言い出すかというと、もう今から20年ほど前、ハワイに引っ越してすぐの頃だったのですが、このイオラニ宮殿の前を初めてクルマで通り、宮殿を見た瞬間に、なんともいえない暗く寂しいなにかを感じたことがあるのです。

ちょうど夕方で、年末か年始だったのでこの前庭に提灯がたくさんつけられ、華やかなはずなのにほんとうに暗く、内臓がひやっとするほど寂しく、この宮殿がじっと睨んでいるように感じられました。

その後、ハワイの歴史を読むにつれ、この宮殿でなにが起きたのかを知って、ああ、そうだったんだ、と腑に落ちたのでした。

それでは、無念な気持ちがここに残っても当然だよね、と。


宮殿の外壁にはぐるりと、丸い鏡がつけられています。

ハワイの第7代目の国王、カラカウア王によって1882年に建てられた宮殿です。
日本は明治15年。

その翌年には日本で鹿鳴館が完成してます。

ところで鹿鳴館って、ちょっとイオラニ宮殿に似てる!

鹿鳴館(wikipediaより)

鹿鳴館がこんなに可愛いイタリアンルネッサンス風の建物だったなんて知らなかった。
戦前に取り壊されてしまったのは残念ですね。


イオラニ宮殿(Iolani Palaceウェブサイトより)

イオラニ宮殿は「アメリカン・フィレンツェ」様式という、ほかに例のない様式なんだそうです。
「宮殿」といってもいかめしさや重々しさはなく、南国らしい軽快な建物です。細めの柱に囲まれたバルコニーの廻り廊下、細身のアーチ型窓、屋根の上の飾りなどがフィレンツェ風ということなのか、全体に瀟洒で女性的な印象です。

イオラニ宮殿は、王と王妃の(最後には女王の)住居であり、執務用の公邸であり、鹿鳴館のように海外からの賓客をもてなす迎賓館でもありました。 

明治時代、どちらも西欧の列強に虎視眈々と狙われていた非白人の新興国という立場であり、太平洋を隔てた「おとなり」であったことから、ハワイと日本の縁はとても深く、カラカウア王は日本と強い絆を築きたいと切望していたそうです。

この宮殿が完成する前年、1881年(明治14年)カラカウア王は世界一周の旅に出ていますが、 その途上で日本を訪ね、明治天皇と会談して、当時5歳だった姪のプリンセス・カイウラニと山階宮定麿親王の縁組、そして日本とハワイを連邦にする計画をもちかけたと伝えられています。


のちのカイウラニ王女。ほんとうに美女ですね。


小さなときの愛らしいカイウラニ王女(ウィキペディアより)。利発そうですねー。
これは8歳くらいにみえますが、カラカウア王は明治天皇との会談にのぞんで、こんな写真をお見合い用に持っていったのかもしれません。

自分の国がアメリカをはじめとする白人の列強に呑み込まれる危険を切実に感じていたに違いないカラカウア王は、当時非白人の国で唯一、列強に対抗して植民地化を逃れ、軍備を増強していた日本帝国とタッグを組むことを望んでいたのでしょう。

もちろん、莫大な借金をしてフル回転で富国強兵し、帝国を絶賛建設中だった日本にはそんな余裕はなかったし、天皇を現人神にまつりあげた明治国家が南洋の小国の姫を皇族の嫁に迎えるなんていう話に乗るわけもありませんでした。



このガラス戸は正面扉。ヨーロッパから運ばれたものなのでしょうが、このすぐ後に来るアール・ヌーヴォーを予感させるような、優雅で軽やかなデザインですね。


1階の中央にあるホールの大階段は、ハワイ原産のコアの木だけでつくられている見事なもの。

建物保護のため、ツアーではエレベーターを使います。


玄関ホールには、各国から贈られた調度品と、王家の歴代の人々の肖像画が飾られてます。
左の壺は、日本から贈られた「白薩摩」だそうです。

肖像画は、どれもはっきりいってあまり上手な画家が描いたものじゃないです。どこのどんな人だったのかわかりませんが、専業の画家じゃなかったんじゃないかな。

ハワイ王国の歴史は、1810年にカメハメハ大王が全島を統一してから1895年にリリウオカラニ女王が退位させられるまでの85年間。

押し寄せてくる西欧列強の文化的・軍事的・政治的プレッシャーが徐々に徐々に強くなり、カラカウア王の懸念どおり、ついに米国に併合というかたちで滅ぼされてしまった小国でした。

在位わずか1年で世を去ってしまったルナリロ王はじめ、短命な人がおおかったため、85年間に王位は8回変わっています。


こちらは貴賓を招いて食事を出した、晩餐の間で、西欧諸国の王族から贈られた肖像画が飾られてます。

19世紀の王族たちは自分の肖像画をよその国に贈る習慣があったそうで、名刺みたいなものだったんでしょうか。

1848年にフランス王、ルイ・フィリップが送ってきた肖像画は、12人がかりでないと運べないほど巨大だったそうです。迷惑ww

長くなったのでつづきます。


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