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2022/02/02

柳の木とソフィーの呪い


 ある日の朝、窓のそとの景色。ロビンかな、ブルージェイかな。

寝室の窓のそとに、路地をはさんでヤナギの巨木があって、アライグマやカラスやリスや、ありとあらゆる小鳥たちがやってくるのです。

以前この家に住んでた一家が去年コロナ渦中で引っ越してしまい、デベロッパーが裏庭にもう1軒別の家をたてるそうなので、この樹も伐られてしまうのかな。

朝晩、この窓から見えるこのワシャワシャした枝が、ほんとうに心の癒やしなのですけれど。

ヤナギの木にはキャラクターがあります。

日本の古い物語にも、柳の木が人になるお話がありましたよね。

 


 『ハウルの動く城』の話つづきもうすこし。(全面ネタばれです。)

2004年公開。

ハワイにいた時で、映画館で見たような記憶がありますが、ストーリーはよく覚えてなかった。

今回見直してみて、ああ、いい話だなあ、としみじみ思いました。

個人的に、ほんとにタイムリーなお話でした。

 


 
声の出演者がすばらしい。

 主人公ソフィーちゃんは、戦後の明るい少女、「下町の太陽」、倍賞千恵子さんそのもの。
意思の強そうな顔が似てる! 倍賞さんをイメージしたキャラなのでしょうね。

60代で少女の声ができる人が、ほかにいるだろうか。永遠の少女。

 


 

荒れ地の魔女の美輪明宏さんも、絶対にほかにありえないキャスティング。

このひとほど声に特徴のあるひとも、珍しいのではないかと思います。

魔力を失って、ただのおばあちゃんになってしまったあとの、毒気が抜けたものの生命力とワガママは旺盛なありかたもすごくよくって、なんとなしに『贅沢貧乏』の森茉莉さんをちょっと思わせる、かわいらしさ。(お二人は同時代で親しく、いろいろあったようですが)



ソフィーちゃんのすごいところは、呪いがかかってしまったことに、まあ当然驚くものの、泣いたり叫んだり嘆き悲しんだりしてないで、できることを考えて、すぐに行動しはじめることですね。

 


 

逃げるのではなく、問題解決にむかって、淡々と、乗り込んでいく。

そしてその途上で、必然的に出会う人たちに、ふつうに、親切にしてあげる。

 


 

自分に呪いをかけた魔女にも、「がんばりなさいよ!」って応援してしまう。

敵のスパイも、自分を呪った人も、悪魔も、みんなみんなフラットに、家族と、というより自分と同じように扱ってしまう。

これってふつうの社会では異常なことだし、さらっとできる人はあんまりいないですよね。

でもたまにいるし、そういう人は、人混みにいても、ピカーっと光っている。

たぶん「菩薩」とか「天使」っていう存在に似てる人たちです。

だからみんな、ソフィーが大好きになっちゃうんですね、彼女から自然な愛があふれているからです。


『風の谷のナウシカ』の(映画ではなく原作のマンガ版の)最後のほうのナウシカと、ソフィーちゃんの行動は、まったく同じです。

敵だった魔王も、破壊的な兵器の巨神兵も、自分の家族と同様に抱きしめてしまう。本気でかかわってしまう。




そうせざるを得ない。ナウシカにはほかのあり方はないのです。

だからその愛にうながされて、魔王も成仏してしまう。ナウシカはまさに「菩薩」。

 

 


 

ソフィーちゃんは、呪いをかけられたからこそ、ゆいいつ解決策がありそうな荒れ地を目指し、 冒険をはじめて、自分の物語を新しいレベルで生き始め、結局まわりにいる人を助けることになるんですね、とっても淡々と。

呪いがあったからこそ、自分のいくべきところ、会うべき人に導かれる。


 

という、スピリチュアル・ジャーニーのお話だったんですねー、この映画って!!

呪いを解くために動き始めることによって、初めて、自分が本当になにを求めているのかがわかってくる。

だから呪いはソフィーにとって恵みだった。

そして、ハウルという、とても大きな才能があるけれど、心がアンバランスで、不安が大きくて、怖がっている人をも、助けてしまう。ソフィーちゃんが、自分の心としっかり向き合っていたからです。

だから、ハウルもソフィー自身も、自分を縛っていた恐れから自由になることができた。

最後はハッピーエンド。こんなにいい人ばかりなわけない、うまくいくわけがない、と恐れているときには、やはり何もうまくいかないし、停滞していくものなのでしょう。

 目の前の問題とまっすぐ向き合い、対話をして、手を動かすこと、そして、自分のためだけでなく、目の前の人を惜しみなく助けることを通して、呪いが新しい恵みに変わり、世界を変えていくというお話なのでした。

病や老いや逆境といった、理不尽におもえる「呪い」は、新しい世界へ入っていくためのきっぷ。そう思うと、なにもかもが変わってしまいます。

変わらなければならないのは、自分のほうなのでした。

 

 

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「年取っていいことは……」


2月ですね!
きのう、月曜日は、退院後、はじめて外に散歩に出ました。

綺麗に晴れて、明るくて、なんだかもう春の気配。小鳥たちも忙しそうに鳴いて巣作りをはじめているようです。

東海岸は嵐と大雪で大変そうですが、シアトルは2月になるともう春めいてきます。

近所でマンサクが咲いていました。






青年がこのあいだどこかで買ってきた、ブラジルのアーティスト。
まったりしてて、春にぴったり。ジャケは秋っぽいけど。

退院してきてからなんだかとってもスッキリしてきて、頭は元気です。
たぶんステロイド剤のせいで、いろいろ体がフル回転しているのだと思う。

ちょっと活動するとすぐに酸素不足になってしまうので、家のなかでもおばあさんのようにゆっくりゆっくり歩いています。
『ハウルの動く城』で呪いをかけられて急におばあさんになってしまったソフィーちゃんのように…。
(退院してきてから、HBOで『ハウルの動く城』を初めて見直しました。おもしろかった。)


ソフィーは20代の娘さんから急におばあちゃんになったのに、落ち着きはらって

「年とって良いことは、驚かなくなることね」

なんていうの不思議、と思ったけど、体が変わると見方も変わる。




「変わってみないと、わからない」のですね。体験しないことは、わからない。

ソフィーちゃんは荒れ地の魔女に急に年寄りにされたことで、冒険に出ることになり、新しい人たちと出会い、自分の力を発見し、世界と自分の美しさに目覚め、愛をみつけていく。

わたしも、静かな1週間を病院で過ごせたおかげで、そして、とてもゆっくりゆっくり生活することになったことで、深いところで、自分にとって本当になにが大切なのかを確認できたような気がします。


病を得るっていうのは悪いことではないのだな、と本当に思えるようになりました。

年寄りにならなければ自分の気持ちがわからなかったソフィーちゃんのように、わたしにも、病を得なければ理解できなかったことがある。

そう思うと、ウイルスもがん細胞も、お急ぎ便メッセージを持ってきてくれた自分の一部なのだなと思えてきます。

まあ、健康でいられるに越したことはないですけれど、順調なときには気づかないことってあるものです。人生にとって健康で長生きすることだけがいつも最重要課題とはかぎらないのだし。

自分にとって大切なものを常に更新していくことが、つまり幸せっていうものなのだな、と思います。

ハウルの城を徹底的に掃除しちゃうソフィーちゃんほどではないけど、わたしも病院から帰ってきてから、断捨離がさっくさくに進んで、部屋の空気ががらっと変わるほどすっきりしました。


フィニーリッジのジャパニーズカフェ『MODERN』のカレー、からあげつき。

コロナ罹患でゴロゴロしているあいだ、入院前に『3月のライオン』をKindleで全巻読んでしまい、川本家の唐揚げカレーが心に残っていたので…。



 抹茶ロールケーキもふんぱつ!これは日本の味〜。

 

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2021/12/30

バーキンと世界の終わり


雪の夜の散歩。近所のおうちのディスプレイが綺麗でした。




こんもり雪が積もったガラス玉がかわいい。

ところで昨日、Netflixでみた『Don't Look Up』が最高でした。



目をみはるばかりの豪華俳優陣がみんなこれ以上ないほどのはまり役だし、(ディカプリオはちょっとロビン・ウィリアムズふうの冴えない大学教授が堂に入ってるし、ジェニファー・ローレンスはいつもの迫力だし、ジョナ・ヒルとメリル・ストリープの親子はおかしすぎるし、ケイト・ブランシェットとタイラー・ペリーのやたらにテンションの高いニュース番組キャスターもあまりにあるあるすぎて戦慄)ほんとに素晴らしい。

以下ネタばれあります。本当に面白いので、ぜひぜひ御覧くださいませ。




地方大学の教授(ディカプリオ)と博士候補の学生(ジェニファー・ローレンス)が、地球に衝突することまちがいなしの彗星を発見して大統領に進言するも…というお話。

大統領がメリル・ストリープ。その息子で大統領首席補佐官がジョナ・ヒル。

もちろん大統領は選挙のことしか頭にないし、スティーブ・ジョブズとイーロン・マスクとジェフ・ベゾズとレインマンをあわせて4で割ったような天才エンジニア企業家(ビジネスマンと呼ばれるのを極度に嫌う、風呂敷を広げるのが好きなナルシスト)に、あの彗星は貴重な資源のカタマリだと進言されて、シャトルをぶつけて彗星の起動を逸らせる作戦を中止する。

これはコメディなのだけど、最近見たどのSFよりも、ある意味、本質的にすごくリアルでした。

いま現実にアメリカで起きていることを、彗星という比喩を使って、まんま率直に描いているのがすごいです。

 


 

メリル・ストリープはもちろんトランプのパロディで、女性大統領、ゲイっぽい息子、IT企業のエキセントリックな大富豪創業者、という、トランプが自分のフォロワーに向かって「こいつらが敵だ、悪だ」認定をしてディスる対象のステレオタイプが、トランプとおなじ立場でおなじことをしている、つまり客観的事実をウソだと言い張り、極端なレトリックで群衆をあおって保身をはかっている、というのが最高におかしい。

映画ははっきり言っていないけれど、クリントンと抱き合っている写真をオフィスに飾っているところから、この大統領は民主党なのだと思われます。

民主党と共和党の、どっちの大統領がホワイトハウスにいても既存の価値観を上書きする力が働くことにかわりはないという状況をこの映画は無遠慮に描いていて、トランプ支持者が見ても、民主党支持者が見ても、ある程度は居心地が悪くなるようにできていて、そこが素晴らしい。

でもすっかりニヒリスティックな映画かというと、ぜんぜんそうではなくて、本当に価値があるのは大切な人と一緒にいることだよね、とか、自分が正しいと思うことを真摯にできるだけやってみるって大切なことだよね、というところは、しんみりと描いてくれている。

『デューン』の救世主、ティモシー・シャラメくんが劇中で世界の終末を前にして捧げるお祈りも、心に響きます。

彼はキリスト教福音派の、おそらく戦闘的で排他的な家族の出身で、教会は嫌いになったけれど、神様との個人的なコネクションを真剣に大事にしている若者、という設定。



メリル・ストリープの「マダム大統領」の小道具として黒いバーキンが何度も登場するのがすごく印象にのこる。


息子で側近のジェイソン(ジョナ・ヒル)がそれを小脇に下げて出てくるのが笑えます。

言うまでもなく、エルメスのバーキンはステイタスと排他性の象徴、物欲と拝金主義と、「持てるもの」の洗練と文化と、とほうもなく偏ってしまった富の象徴ですが、そのバーキンを、ママのカバン持ちとして抱えて歩くというのはジョナ自身のアイデアだそうです。

このジェイソンが捧げる、「素敵なモノたちがなくなりませんように」という祈りは、シャラメくんのお祈りと対をなしています。

このお祈りには、快適で素敵で高価なモノにしか価値を見いだせない精神のあり方がうきぼりにされているわけですが、なかなか含蓄あるというか、バカにしているだけじゃなく、自分たちの足もとを痛烈に指摘されているようでもあります。

クレジットの最後におまけ映像があるので、それもお見逃しなく!

2021年という年の最後を飾るにふさわしい、世界の終わり映画でした。


 

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2021/12/22

ドライブ・マイ・カー


 SIFF UPTOWNに、CTちゃんご夫妻と青年といっしょに、日本映画『ドライブ・マイ・カー』を観に行きました。

映画の前にお向かいのハンバーガーショップ、Dick’sに行ったら、店内のテーブルや椅子がすっかり取り払われていて、体育館のようになっていて驚いた。

これは、しばらくは、ウィズコロナの時代だ、っていう宣言なんでしょうか。

お店としては、いちいちワクチン接種の確認ができる業態でもないし、たしかに、店内で食べてもらうメリットはないわけだよね。

しかたなく、まるで放課後の中学生か高校生のように、お店の外で立ってハンバーガーを食べる。 

 

 


 

ロビーに貼られたポスターにはもれなくサンタの帽子がくっつけられていましたww
西島秀俊さんにも。

赤いサーブによく似合うサンタ帽子。こういうデザインのポスターなのかと思っちゃった。

なんと上映時間3時間の長編映画と聞いて、いったいあの短編(村上春樹『女のいない男たち』所収の『ドライブ・マイ・カー』)からどうやって3時間の映画が、と思ったけど、なるほどー。

静かで淡々とした(さいきん、気に入った映画にはこの形容ばかり使っている気がする)語り口で、3時間たいくつしませんでした。お尻はちょっと痛くなったけど。

場面転換がとっても上手で、だからそれぞれの場面はとても静かなのだけど、全体がテンポ良く感じます。

カメラワークも、わざとらしいような美麗さは狙ってないけれど、なんていうか、安定していてビシッと決まっている。とっても控えめな詩情というか。


以下多少ネタばれあり。

原作の短編に、別の作品のエピソードも織り込まれ、さらに劇中劇としてチェホフの『ワーニャ伯父さん』がものすごく効果的につかわれていて、わたしはチェホフの、ソーニャのセリフで泣きました。

チェホフも10代のときに読むはずだった名作シリーズ。帰ってきてさっそく、青空文庫にダウンロードしました。

役者たちが、チェホフ劇をそれぞれ自分の母語で演じるという多言語舞台は、原作にはない映画だけの設定。

ひとつの舞台で、ひとつの物語が、日本語、韓国語、中国語などで進行していくという、不思議な多言語舞台を、主人公の家福さん(西島秀俊)が演出するという設定です。

あらかじめ、コミュニケーションが成り立たない設定のなかで、普遍的な物語を紡いでいく舞台。

同じ言語を使っていてさえ、どうしてもすれ違い、どんなに近くても完全に理解することができない、わたしたちのコミュニケーションというものの不完全さを象徴しているような。

でも、言語が違っていてさえ、同じ場、同じ時を共有するものの間に、つたわるもの、つながるものもある。それはなにか、同じ時代を生きている人間のあいだに普遍的なもの、ということなのだと思います。チェホフの劇にはそれが表現されているし、そういうものがあるということは救いです。

帰ってから原作を読み直してみたら、ハンサムな役者、タカツキ(映画では岡田将生が演じ、原作よりもずっと若くてずっとわかりやすく問題をかかえて派手めに壊れている人という設定です)が主人公の家福に語るセリフは、原作のままでした。

「どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐに見つめるしかないんです。僕はそう思います」

そして家福と高槻は「お互いの瞳のなかに、遠く離れた恒星のような輝きを認め」あうのだけれど、二人が会うのはそれが最後になる。
映画ではさらにドラマチックな展開になっていきます。

 




映画は、ぜんたいに、村上春樹の原作よりもずっとストレートに、人の痛みと、前向きなもの、つながりへの信頼的なものを描いていると思う。

 映画も原作もそれぞれ素敵です。

小説は、心のつまづきのようなものを、はっきりした形で示さずに、染みのようにぼんやりと体感させてくれる。

映画は各キャラクターの痛みとつまづきを、率直に、一定の距離から描く。

広島という都市の痛みも、とても控えめに静かに描かれていました。

役者さんも素晴らしくて、とくに無口なドライバー役の三浦透子と、奥さん役の霧島れいか、初めて見たけど素敵でした。

あと韓国の俳優さんたちも、すごくよかったです。

いい人っぷりが顔じゅうに輝いている、演劇祭の世話役の人(アンパンマンが実写で演じられそう)、そして、ソーニャを演じた女優さんがめちゃくちゃ存在感あって、見ているだけで飽きませんでした。

おすすめでーす。お尻が痛くなるけどね。

 


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2021/12/14

『トーベ』とちびのミイ


 先日いただいた、建築家Y子さんの新作。ひろってきたモミジの赤い葉が不気味なかんじに枯れて、海藻みたいで、似合います。ムーミンパパがある日突然ニョロニョロたちといっしょに旅に出てしまうお話があるのですが、その物語にでてくる、うら寂しい海岸の景色のように。

このあいだ、ムーミン原作者のトーベ・ヤンソンの伝記をもとにした映画『TOVE/トーベ』をストリーミング(Amazon)で観ました。ことし、2021年公開の映画。



淡々とした語り口で、なかなかステキな青春映画でした。

主演の女優さんは写真で見るトーベさんとよく似てる。

長年の『ムーミン』シリーズ大ファンなのに、わたしはトーベさんのことはほとんど知らず、彼女がバイセクシャルで、なくなるまで長いあいだ、女性のパートナー(ムーミンシリーズに出てくる「おしゃまさん」のモデル)と暮らしていたということも知りませんでした。

映画にもちらっと出てくるその彼女、『ムーミン』読者なら、一見して、あ、おしゃまさん(英語名はToo-Ticky、スウェーデン語はToo-tickiで、だ、とわかるくらいそっくりでした。

 英語のMoominサイトには、モデルになったTuulikki Pietiläさんとトーベさんの楽しそうな写真も載ってました。



ついでにお宝自慢。

そのむかし、いまのようにグッズを一手にグローバル展開しているMoominとは別の、独立系のムーミンショップというのがホノルルにありまして、オーナーさんはまだご健在だったトーベさんに直接交渉してオリジナルのグッズをいくつか作っているのだと自慢してました。
トーベさんからの直筆のお手紙がお店に飾ってありました。

そのうちのひとつがこのシルバーのアクセサリー類で、ペルーの職人さんに作らせているのだといってました。

当時はほんとに洒落にならないくらいの赤がつく貧乏であったため、たしか6000円かそのくらいだったこのちびのミイのピアスになかなか手が届かなかったのですが、結局そのお店が閉店することになって、その閉店セールで半額になったときに、頑張って買った覚えがあります。

つけてるとどうしてもミイが逆立ちしてしまうんですけど、ここぞというときのお守りピアスです。

ちびのミイはいつも笑っているか怒っているかのどちらか。いっさいの忖度をしないし、本質を見抜いて、かしこく、何ひとつ恐れず、どんな状況でも完全に楽しみ、完全に自分に正直で、自分のしたいことをよく知り、ときどきウジウジしているムーミンをいじめるけれど、底意地が悪いわけではなくて、遠くで見守ってときどき面倒をみてやったりもする、ハードボイルドなキャラクター。リアルライフの人間が同じことをしたらかなり大変な人格になってしまうので、やはりポケットや砂糖つぼにおさまるサイズであるからこそのキャラですね。

でもいつも隣にミイがいて話し相手になってくれたら面白いなあ。

トーベさんも、ミイは自分がそうでありたい分身だと言っていたそうです。


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2021/12/08

ほんとうに面白い「What if...」シリーズ

 


近所の道に落ちていた、なんだかわからない赤い実。

このへんは果樹や木の実のなる樹が多いので、鳥たちやリスたちには安心安定の環境なのだと思う。
けっこうより好みもあるようで、まったく見向きもされていない果樹や実もたくさんあるかと思うと、思い出したようにある日とつぜん大群がやってきて食べ始めることも。不思議です。


AppleTV+で『For All Mankind』シーズン1と2を一気に観ました。

これが実は、『ファウンデーション』よりも、はるかに面白かったです。

いま盛んに宣伝してるトム・ハンクス主演の近未来SF映画『Finch(フィンチ)』よりも、ずっと面白かった。

脚本も演出も、けた違いに素晴らしいです。

キャラクターも陰影と説得力があっていいし、演技も素晴らしいし、ストーリーのテンポもいいし、会話のスクリプトもいいし、美術もいいし、非の打ち所がなくてほんとうに楽しめました。このシリーズを観ていたら、正直なところ『ファウンデーション』はかなり頑張って観ていたことに気づかされてしまいました……。

もしも米ソの宇宙開発競争が途中で止まらず、どちらの国も予算をじゃんじゃんつぎ込んで開発を続けていたら……という設定の、現実とは違う1960年代後半〜1970年代と1980年代を描く「歴史改変SF」です。

邦題は『ニクソンの女たち』。シーズン1のエピソード3のタイトルをそのまま使っているのですが、この邦題はよくないと思う。

ニクソン大統領の強い希望というか命令により、女性宇宙飛行士たちの訓練が始まり…というお話なのですが 、シーズン2の舞台は1982年〜で、大統領は(テッド・ケネディを破って、実際の歴史よりも4年早く1977年に就任したという設定の)2期目のロナルド・レーガンです。

いかにもレーガンが言いそうな「レーガン節」や、いかにもレーガンがしそうな行動がすごく巧みに織り込まれ、登場人物と世界の運命に影響していきます。

シーズン2の時代には、もはやニクソンのことなんか誰も覚えていないのです。

『ニクソンの女たち』はシリーズ内のひとつのエピソードのタイトルとしては気が利いていて、内容にも合っててとてもよいと思うけれど、このシリーズ全体をあらわすタイトルとしては意味が弱く、物語のほんの一部しか語っていないし、全体の構想の壮大さがまったく伝わっていません。

このシリーズは政治ドラマの部分はもちろんあるけれど、それは魅力の3分の1くらいでしかないのに、「ニクソン」と「女」というのを強調しすぎて、しかも「の女」と所有格がパワーゲームとジェンダー問題まで匂わせて、内容にそぐわないドロドロ感を醸し出してしまっていると思うのです。それに、女性宇宙飛行士は重要な要素だけれど、このドラマの主題はそれだけじゃないし。

 このタイトルだけみて観るのをやめちゃう人がいるとしたら、あまりにもったいないです。

シーズン1の後半以降、宇宙飛行士だけでなく、女性が長官とかオペレーションディレクターといったトップに進出していき、現在でさえまだ実現されていないほど、重要な地位を女性たちが次々と占めていくのも、シリーズの見どころです。

(ひとつだけ難をいえば、ドラマの中で女性が破竹の進撃をしているのに比べて、黒人、ラティーノ、アジア系が主要登場人物に占める割合が少ないことです。それぞれのマイノリティからまんべんなく一人か数名ずつ印象深いキャラクターが出てきて、さらには同性愛者の主要キャラもいて、それぞれのストーリーをちょっとずつ見せる。それぞれ真摯に扱われていて説得力があり、そつがないなあ、という印象を受けましたが、だからこそもう一押し!)

『宇宙兄弟』が好きな方にはぜひぜひみてほしいなあ。 「宇宙もの」全般が好きな人には全力でおすすめです。

 



あと、詳しく知っていなくても面白く観られますが、1960年代以降のアメリカ現代史をざっとおさらいしてから観れば、さらにさらに楽しめると思います。

わたしも20年以上アメリカに住んでいるとはいえ、そしてわりに最近(20年前とかではなく)大学でアメリカ現代史の授業を2コマ受けたにもかかわらず、なにしろ記憶力がアレなもので大統領の順番くらいしかろくに覚えておらず、観終わってからウィキペディアでいろいろ確認したりしてました。

歴史を知ってると「あら、これは…」と、現実とは違う設定がいろいろとチラチラ出てくるのが楽しめるし、そのときの状況を新鮮な方角からみてみることもできるのが面白いです。凶弾をあぶなくかわして生き延びたジョン・レノンが平和コンサートを開いているニュースが流れたり、電気自動車が80年代に実用化されていたりといった小ネタがちりばめられています。

うちの青年は、シリーズ1で宇宙飛行士たちが運転しているコルベットにくぎづけで、「この時代のコルベットは最高にかっこよかったんだよなー」と言ってました。
いまのコルベットやムスタングには馬力だけがあって思想がない、いかにも退屈なミッドライフクライシスの車、という位置づけだそうです、彼のなかでは。

ドラマに登場する女性宇宙飛行士のなかで、訓練生中トップの成績に輝くモーリー・コッブというめちゃくちゃかっこ良いキャラクターがいるのですが、この人には実際のモデルがいます。

ジェラルディン・コッブという人。
シーズン1のエピソード4は、この人に捧げられています。

わたしもぜんぜん知らなくて、さっそくウィキペディア先生におたずねしてみました。

そしてびっくり。本当にリアルにすごい女性だったのでした。

1950年代〜60年代、20代のときに飛行の世界記録を3つもうちたて、アメリカ初の友人宇宙飛行をめざしたマーキュリー計画で、男性と同様の試験に合格していた女性たちがいて、コッブさんはその中でも、男性を含むすべての候補者のなかで上位2%の成績を示したのだそうです。

この「マーキュリー13」と呼ばれる女性たちのことは、わたしはまったく知りませんでした。

 しかし「社会的秩序」を重んじる60年代のおっさんたち(ジョンソン大統領を筆頭に)やおばさんたちに阻まれ、女性宇宙飛行士の訓練は実現せず。

その後、コッブさんは30年にわたり、アマゾンで宣教活動と航空機による支援活動を行い、ノーベル平和賞の候補にもなっています。熱心なクリスチャンだったのですね。

『For All Mankind』のモーリー・コッブは、たぶん実際のコッブさんよりもずっと行儀のわるい、口もわるい人。でもねじまがったところのない、人間味のあるヒーローです。「竹を割ったような性格」の人という言い方が日本にはありますが、まさにそれそれ。

彼女の旦那さんは自分の感情を(フェミニンな面を)恐れずにさらすことのできる、素晴らしいキャラクター。2021年になってもなかなかお目にかかることのできないタイプの男性です。

わたしはこのカップルが大好きで、旦那さんが登場するたびに嬉しくなってました。

シーズン3はもう撮影が終わっていてポストプロダクションに入ってるそうなんだけど、公開は来年5月の予定だと!ポストプロダクションってそんなに時間がかかるのか!

シーズン2のエンディングにはNIRVANAの曲『Come As You Are』が流れ(いや〜本当にかっこいい曲だなあ)、チラ見せの場面に「1995年」というテロップが流れました。シーズン1が1970年代、シーズン2が1980年代なら、やっぱり次のシーズンはその10年後ですよねー。

あの登場人物はまだ生きているのか、あの人はほんとに政界入りしたのか、あの夫婦は結局別れたのか、あの人はあの学校に入ったのか、その後のキャリアはどうなったのか、まるで友人のその後のように、いやそれ以上に、気になるー!

そして、このパラレル世界の1990年代では、ソ連は崩壊ずみなのか、ベルリンの壁はどうなったのか、大統領はクリントンなのか、もしかして共和党政権なのか。技術がかなり前倒しになっていて、1980年代なかばの設定で携帯電話が登場しているので、90年代なかばでもうスマートフォンの第一世代が出てきているかも…。スティーブ・ジョブズはまちがいなく登場するに違いない!でもどんなふうに? 

早くリリースしてくれー!お願いApple!




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2021/12/02

華麗で凡庸な悪人の話



レディ・ガガとアダム・ドライバー主演の『House of Gucci』を観にいってきました。

今回は、ご近所のMajestic Bay Theatresへ。歴史ある独立系のローカル映画館で、コロナで閉館していたあいだ、一時は存続があやぶまれたこともありましたが、無事にサバイブしてくれました。

本編上映前に上映された映画館のPRムービーにはオーナーが登場して、支援のお礼とともに「ウチはウイルスを殺す仕掛けがあるから安全ですっ」と力説していました。紫外線かなにかで室内の空気を清浄にするマシンを導入してるそうです。ほんとか!!

この映画館では、入り口でちゃんとワクチン接種証明を提示して入りました。
紫外線の効果はともかく、そのへんがまったくいい加減で人が多いシネプレックスよりは安心度は高いです。

で『ハウス・オブ・グッチ』。日本では1月公開だそうです。

以下ちょっとだけネタバレあるかもしれません。

 



ぜんぜん前知識なく、これがリドリー・スコット監督だということすら知らず、グッチ家の物語も知らず、予告編を観ておもしろそうだと思っただけで観に行ったんですが、…面白かった。

すくなくとも、画面はとっても見ごたえがありました。俳優陣がなにしろすごい。

ぐぐったらすぐにわかる有名な事件でおわる結末も、まったく知らなかったので、いったいこの話がどこへいくのか、フィールグッド映画なのかそうではないのかすらも最後のほうまで見当がつかなかったのですが、うーん、この映画に関しては、むしろ二人がどうなるかのリアルストーリーを先に知っていたら、そのほうがもっと楽しめたかもしれない、と思います。

というのは、レディ・ガガ演じるパトリツィアにも、アダム・ドライバー演じるマウリツィオにもまったく感情移入ができないことに、途中からイライラしはじめたからです。

そのへんでフィールグッド映画でないことにはうすうす気づいてくるんですが…。

 主要登場人物には一人も共感できない映画でした。

パトリツィアはチャーミングだけれど強烈な上昇志向とプライドのほかには内面がなにも描かれず、マウリツィオも一見洗練されていて魅力的だけれど、凡庸で流されやすく、冷たくて自己中心的で上すべりで面白みのない人間として描かれている。

華麗な世界の欲とエゴにまみれた人々、ではありながら、とっても凡庸で退屈な人たちのストーリーになっています。(映画が退屈という意味ではありません)

出てくる人にまったく共感できない、けれどすごく面白いお気に入り映画っていくつかあって、たとえばエマ・ストーンの『女王陛下のお気に入り(The Favourite)』とかアダム・サンドラーの『アンカット・ダイヤモンド(Uncut Gems)』は、その嫌なやつぶりがあまりにも突出していて、とてもエンターテインメントでした。

そして、同じリドリー・スコット監督の『悪の法則』は、無表情な悪が淡々と描かれていて、とても怖い映画でした。

でもこの映画のグッチ家の人々は、華麗なるお金持ちではありながら、とっても凡庸。

まったく怖くはないし、共感もできない。

外見は魅力的で見ごたえがあるのだけど、なかみは平凡で退屈なキャラクター。そのなかみのからっぽぶりを、ガガもアダム・ドライバーもとてもよく演じていると思います。

むしろこれはコメディとして見たほうがいいのかもしれません。でもそれだったら最初からそう言ってよ、という気もする。なんだかちょっとどうしたらいいのか困ってしまう感がある映画でした。

濃いドラマだと思って観たらコメディだったという……これはまんまとリドリー・スコット監督の思うつぼなのかな。

トム・フォードも、「観ながら何度も爆笑したけど、笑うべきだったのかどうかわかんない」と言ってました。



ガガ様とアダム・ドライバーその他の出演者たちのイタリアンアクセントは賛否両論あるようですが、わたしは観ていてちょっと疲れた。

それがどのくらい「正確な」アクセントかまではわたしには判断できませんが、イタリア人の話をわざとらしいイタリアンアクセントの英語でアメリカ人が演じるということ自体が、なんだかなー、と思い、イタリア語でやらないのならふつうのアメリカ英語でいいじゃないのと思ったのだけど、でも!!これはブラックなコメディ映画だというのなら、納得できます。


 
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2021/11/19

わたしたちがいない世界で

 

フィニーリッジの住宅街で見かけた、古いベッドを利用した花壇。英語で苗床や花壇のことをbedといいますが、これが本当の「フラワーベッド」……😀😀😀(ついにブロガーでもEMOJIが使えるようになっていたのでためしに使ってみました)

先日、Apple TV+のドキュメンタリー『THE YEAR EARTH CHANGED』を観ました。


 





コロナ禍のために世界中で人間の活動が止まった年に、自然環境に起きたことの記録。

インドの町では30年間スモッグで隠されていた200キロ先のヒマラヤ山脈が突然見えるようになり、アラスカでは海が静かになったのでクジラが安心して子育てできるようになり、フロリダでは人のいなくなった砂浜でウミガメのお母さんがゆったり産卵できるようになり、奈良では鹿が鹿せんべいをもらえなくなって、かわりにヘルシーな食事をするようになり…。



15年くらい前に、『The World Without Us』という、人間が急にいなくなった世界はどうなるか、を描いたノンフィクション本が ありましたが、まさかヒトがいない世界を本当に目撃する日がくるとは。

人間の経済活動が止まり、人の姿がなくなった世界のあまりの清浄さに衝撃を受けました。

急激な「浄化」ともいえる作用をなんとも胸が痛くなるような美しい映像で見せられて、涙が止まらず。

サバンナで、チーターの狩りを見に来る観光客たちの車の騒音で、チーターのお母さんが子どもを呼ぶ小声が聞こえづらくなっていた、というのが哀しい。見物の観光客が減ってノイズがなくなったぶん、子どもたちがすばやくお母さんの声をききつけられるようになり、子どもの生存率が上がっているそうです。

(チーターのお母さんはシングルマザーなので、子どもを安全な場所に残してひとりで狩りをするのですが、獲物を捕まえたあと大声で呼ぶと、幼い子どもが天敵の注意を惹いてしまうため、小さな声で呼ぶのだそうです。そして、チーターが獲物をつかまえる狩りは、観光客にとってもっとも見たいショウのひとつ。)

野生動物を野生の環境で見たいという欲が、動物の迷惑になっているんですね。


人類の経済活動って結局あくなき欲望の追求なのだということが、あらためて、単純に衝撃的に、ずしんと響きました。

経済活動をちょっと差し控える、たとえばカメのために一定期間ビーチを立ち入り禁止にしたりするだけでも、かなり大変な反対に遭うことだろうし、動物のためだけでなく環境のためになにかをやめる、開発や便利さをあきらめる、なにかを手放す、ということは極端にむずかしい。

コロナが落ち着いたらすっかり元通り、になるのか、前より悪くなるのか、よくなるのか、何かが変わるのか。

50年くらいあとになって、あのときに人類が気づいて経済活動をスローダウンさせられていたらよかったのにね……なんてことになりませんように。


いまの時代はいろいろな意味でターニングポイントなのかもしれないですね。


 

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2021/11/16

だいぶ違うけどそれなりに



きょうも朝のうち灰色の雨が降ってびゅうびゅう風が吹いていましたが、午後から久しぶりに快晴に!なんとまあ、違う惑星にいるかのような明るい色彩であることよ。

 


あともう数日の紅葉。

先日デンワを買ったら、おまけにApple TV+のサブスクリプションが3か月無料でついてきたので、いま『ファウンデーション』を観ています。

とりあえずのシーズン1は10話完結で、最終回は今週金曜日に配信。

 


 

やはりやはり、アイザック・アシモフの原作とはかなりかけ離れた内容です。

原作はシリーズ1冊めしか読んでいませんが、だいたい50ページくらいごとに50年くらいの時間が経過し、そのたびにすっかり登場人物が入れ替わる壮大な時系列の話なので、そのままドラマにするのはかなり困難と思われ、やはり原作にはまったくないテロや撃ち合いや恋愛や殺人がドラマを添えています。

中学生のときに原作を熱愛していたという経済学者のポール・クルーグマンさんなどは、このあいだのニューヨーク・タイムズのニューズレターで(『デューン』を激賞する一方で)あまりにも原作と違っているので「オレはもう観るのをやめた」と言ってらっしゃいましたが、まあそう捨てたものでもありませんよー。

帝国のクローン皇帝たちは面白いし、ビジュアルも、そりゃ『デューン』とくらべものにはならないにしても、主人公のひとりガールの故郷の水の惑星なんかとてもキレイでした。

トランターとターミナスの描写は原作よりもかなりスケールダウンしていて、目の回るような壮大さまでは感じられないのが残念だけど。とくにターミナスのファウンデーションは10万世帯が移住して、少なくともつくば学園都市くらいの規模があるはずなのに、ちょっとスケールが小さすぎてがっかりでした。でもトランターの図書館はステキ。

それとタイトルのタイプフェイスがかわいい。



 

この間、ドラマを見る前にも書きましたが、原作はなにぶん1951年、戦後まもなくの出版で、科学万能の時代の楽観主義にあふれています。

科学の子・原子力の子『鉄腕アトム』の楽観主義と同じ色合いの楽観主義。

なにしろ原作は、人類の科学の知を守るファウンデーションが近所の野蛮な惑星に対して、科学技術を神秘の宗教として印象づけ、その司教たちを派遣することでうまいこと優位に立ってパワーバランスを保つという、21世紀のいまよく考えるととてもとてもポリティカリーにインコレクトなひどいお話ですが、ドラマのほうでは、低レベルの蛮人を騙してまるめこもうというのではなくて、正攻法で話し合ってみんなで力を合わせよう!というような方向にひっぱっていきそうな感じです。

なによりも、原作の登場人物は男性ばかりだけれど、ドラマシリーズの中心キャラクターは二人とも黒人の若い女の子だし、ファウンデーションを襲ってくる近隣惑星の軍団のいちばん強い戦士も女子戦士です。

第9話のラストではファウンデーションの創始者ハリ・セルダンが「えっそこからか!」と思うところから登場してびっくりでした。

原作では、セルダンが生前に録画した立体ビデオが再生されるのでしたが、ドラマでは、どうやら、わたしの理解が正しければ、セルダン博士はAI的な意識存在になっているらしい。つまり時空を超えている。それも面白いなと思います。

金曜日の最終話がかなり楽しみ。なんだかものすごく久しぶりに「放映を待つ」感じが懐かしいです。



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2021/11/03

パグの惑星


11月ですね。はやいはやい。楽しいハロウィンでしたでしょうか。

ハロウィン当日の近所のおうち。ホーンテッドマンションみたいな真っ赤な照明で子どもたちを待ってました。


ここも前庭が墓場になっていたけど、骸骨がカクカクダンスみたいなへんな格好にポージングされてて愉快でした。



ハロウィンの日曜日はちょっと仕事が残っていたのだけど、あまりにもよい天気だったので、フィニーリッジの丘の上のカフェの日あたりのよい席に行きました。

ちょっと細かいチェックが必要な作業も、さんさんと日を浴びながらだと背中がのびのびして、つらくない。

目の前をいろんな衣装の小さいこどもたちとパパ&ママたちが通っていって、楽しかったです。

ここのカフェでは初めて、店内に座る条件としてワクチン接種の証明書提示を求められました。

室内での飲食の条件としてワクチン接種証明が必要、と書いてあるところは多いけど、実際に見せてといわれたのは初めてです。て言っても、まあそんなに出かけてないけど。

先週末、コロナ禍はじまって以来2度目に映画館に行ったときも、ウェブサイトにはワクチン証明書が必要って書いてあったのに入り口でまったくノーチェックだったので、えー、と思いました。

満席ではないけどけっこう混んでいた。両隣と席をひとつ空けて座ってはいたけれど。

観に行ったのはこれです。

 


 
よかったです!!とにかく綺麗だったーーーー!!!!圧倒されました。

映画館でもう一度観たい、と思った映画はかなり久しぶりでした。もう一回見たいです!

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、『メッセージ』のときの美術スタッフをかなりそのまま使っているそうで、宇宙船のたたずまいとか、やっぱり似たところがあった。

暗い海のある灰色の惑星(ノルウェーで撮影したらしい)の風景も砂漠の惑星の風景も、それぞれの侯爵邸のインテリアも空気感もほんとに素晴らしくて、それだけでも2時間観ていられる感じ。
そしてはばたく飛行機(オーソニソプター)と巨大宇宙船のデザインがすごい。

もちろん、砂蟲:サンドワームも迫力でした!

あまりにも盛り上がってしまったので、翌日、デヴィッド・リンチの1984年版『砂の惑星』をストリーミングで観て、青年と二人でどっしゃー!とひっくり返りました。

この映画、昔いちど観たはずだけど、ジャバ・ザ・ハットをさらにやばくしたみたいなギルドの航海士とカイル・マクラクランが砂丘を下りていくところと半裸のスティングのオレンジの髪型(強烈だった)しか覚えていなかった。



デヴィッド・リンチ版は、とくに後半はYouTubeの「だいたいこういう話」みたいな仕上がりになっていて、なんだかもうやけくそみたいな映画でした。
『サタデー・ナイト・ライブ』のコントみたいな。

80年代らしい、ヴェルサーチというかマハラジャ的なインテリアデザイン(宇宙船の入り口まで黄金色のベルサイユ宮殿みたいな装飾が)と、公爵家にパグが飼われているところとかが、いかにもデヴィッド・リンチぽくておもしろかったです。あと悪趣味なキャラクターね…。

 


デヴィッド・リンチ版では、パグが一番心に残りました。

 

それと、見事なまでにキャラクター全員が白人だったなぁ。原作では中国系らしき描写をされているユエ医師まで、白人になっていました。

ヴィルヌーヴ版では、ユエ医師はアジア人だし、 砂漠の民のキャラクターの何人かは黒人で、なかでも重要なキャラクター、リエト・カインズ博士が黒人女性になっている。 

 

 


 

みるからに強そうなカインズ博士。

今回の「パート1」ではどんな人なのか背景があまり説明されないまま、ナゾの人として終わったので、きっと次回作の回想シーンで登場してくるはず!

オスカー・アイザックのレト公爵もすごくよかったです。えぇぇ、お父様役にはちょっと若すぎでは?とも思ったけど、いやいや充分迫力あったし、スペイン貴族みたいな貫禄があってステキでした。

原作の新訳が出ていたので、映画を観たあと、Kindleで読んでしまいました。(以下ややネタバレ)

フランク・ハーバートの『デューン』シリーズ第一作は『砂の惑星』は1965年出版で、生態系と生物の意思、精神と肉体の訓練による超常能力、薬物による意識変容と時空を超えた予見など、ニューエイジを先取りしたような材料がいっぱい詰まってる。

そして、面白いのが、『デューン』の宇宙では、人工知能もコンピュータも駆逐されているということ。

かつて宇宙を支配する勢いだった技術が、宗教革命的な大戦争のあげくに完全に撲滅されて、人類はあちこちの恒星系にまたがって住みながらも、ローマ帝国時代さながらの帝政が敷かれ、封建的な寡頭政治が君臨しているという世界です。

『スター・ウォーズ』の帝国は、アシモフの『銀河帝国』よりもこっちのデューン的世界に近い感じがする。ロマンチックな華やかさがあって、周辺が曖昧で、魔法的な。
 

そしてこの世界で恒星間飛行を可能にするテクノロジーは、人工知能やコンピュータのかわりに、辺境の砂漠の惑星でしか産出されない「スパイス」が人間の意識を変え、能力を超常的に高めることによってなされるという、神秘と魔法の世界なのです。

そして、女性だけのベネ・ゲセリットという宗教集団が、修業によって心身の能力を高め、常人の及ばない力を得るとともに、人類の歴史に関与していこうとする。

修練によって能力を高めるところとか、人の心を読めるだけでなく操る「声」を身につけるとか、ちょっとジェダイ騎士団的ですね。ジェダイは薬物を使わないけれど。

 


コンピュータのかわりを務めるのが「メンタート」という、これも薬物で能力を高めた、とてつもない情報処理能力を持つ人間たち。貴族のお抱えブレインとしてスーパーコンピューターのような能力を発揮するのですが、人間らしい忠誠心や復讐心は持ち合わせているという設定。

本作は「パート1」と控えめに銘打たれているものの、次作の制作はまだ始まっていないどころか決まってもいなかったようで、公開後、無事ヒットしたのでやっとお金が下りたのか制作がアナウンスされて、ヴィルヌーヴ監督の「三部作にしたい」というインタビューが公開されてました。

そうでしょうそうでしょう。三部作で撮りたいでしょう。

しかし、原作世界は、型破りなところもあるものの、基本的にはローマ帝国以来のジェンダー観の枠組みのなかで話がすすみ、政略結婚と貴族的な深謀遠慮、そして高貴な血筋の指導者への忠誠と心酔、というロマンチックな力学をベースにしています。

暴君ネロのようないかがわしい男爵と、部下にも信望の厚い高潔なレト公爵が対照的に描かれ、その息子がいやおうなしに英雄になっていくお話なのですが……。

ヴィルヌーヴ監督はこれをどんなふうに21世紀むけに演出するんでしょうね。

次回作は2023年公開予定だそうです。

わたしは生きて見届けられるかどうかわかりませんが、リエト博士と娘の、砂漠の強い母娘の姿が『マッドマックス 怒りのデスロード』のフュリオサ以上に印象強く描かれるといいなー、と思います。ああ観たいなー。

原作の後半では「聖戦」を率いる救世主になることをなんとか避けようとする主人公ポールが、結局運命の流に巻き込まれて世界を変えていくのが面白いなあと思いました。

パグはでてこないかな。


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2021/09/25

ナポリタンとかき揚げ


秋分も過ぎて、かぼちゃの季節になりました。スーパーの前にも、かぼちゃが登場。

暗くなってくる季節に、明るいオレンジ色のかぼちゃ。

夜がどんどん長くなるし雨が多くてどんよりグレーになってくるシアトルみたいな地域では、この明るいビタミンカラーが、とてもありがたい存在です。



アバンギャルドなかたちのかぼちゃたちも。こういうの、ずっと昔にうちのじいちゃんが育てていたような記憶があります。

やましたひでこさんのほかにここ最近YouTubeではまっているのが、コウケンテツさんの動画。

食べるのも作るのも面倒くさくなったときに見ると、いつの間にかごはんを作りたくなっている幸せ動画です。

コツを的確にいくつか教えてくれつつ、気軽に手早くできそう!と思わせてくれるところが素晴らしい。

この間女子会にもっていったチャプチェも、初挑戦だったけど好評でした。


この人のすてきなところは、とにかく終始心からたのしそうにニコニコしているところ。

ケンテツさんが家族5人分の朝食を黙々と作っている動画をぼーっと流しっぱなしにしていると、なんだかひたすら癒されます。

起きてきた3歳くらいの末娘ちゃんが
「パパー、おみじゅのみたい」
「ねーはやくひこうきつくってよー」
とかいろいろ要求してくるのを、フライパンをふるいつつニコニコと相手してるのみてると、心あたたまりすぎて涙でてくる。神様なのかこの人は。

さいきん加齢のせいか、犬がめっちゃ喜んでしっぽ振ってるところとか、子どもと親が楽しそうに遊んでるところをふと見かけるだけで、嬉しくなって涙腺がゆるんでしまうことがあります。

散歩しながら涙ぐんでいる怪しいアジア人のおばさんであるよ。

 

 


でコウケンテツさんです。きのうはこの動画をみて作りたくなったナポリタン。

喫茶店ふうナポリタンは、いろいろなレシピがあるようですが。

ケンテツさんのナポリタンは、玉ねぎとソーセージのみ、最初にマヨネーズでパスタを和えておく、ホールトマトとウスターソースでソースを作り、「追いケチャップ」をする、最後にバター。というレシピ。



ケンテツさんは「ピーマンはナポリタンには不要!」と力説されてましたけど、わたしはやっぱりピーマンと、できたらしいたけも入れたい派。

このあいだつくった別のレシピは、ケチャップと牛乳で和えるレシピ。

どっちのレシピも、ペコリーノチーズをたっぷりかけたらとりあえず美味しくいただけました。

ナポリタンはやっぱり銀色のお皿で食べたいな。



人参のかき揚げも、動画をみたら作りたくなって、ひっさびさに天ぷらを。

かき揚げって即「面倒」って思ってしまっていたけど、その心理的ハードルを取り去ってくれたのがありがたい。


翌日リピートして、かき揚げ丼に。

ちょっと油っぽくなってしまい、「サックサク」にはならず。

うちのレンジは電気コンロみたいなやつなので、火加減が難しい。ガスはいいなー。


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2021/09/24

断捨離の人と、カオナシだった人たち


 またダリア。微妙にベージュとオレンジの混じったピンク。この色好きです〜。


元祖・断捨離の提唱者で教祖的存在のやましたひでこさん。
ごくさいきん、ていうか先週、初めてYouTubeで見て知りました。

断捨離に財団があって検定まであるってところがさすがに日本!てびっくりだけど、それだけ、必要とされているんでしょうね。


BSの番組もあるんですね。



やましたひでこさんは言葉でのまとめ方がとてもうまくて、シンプルに本質を突いているのですごく納得させられます。

モノは思念の反映であること。
つまり、「捨てられない」のは不安の投影である行為、であること。

自分のいる場所や暮らし方には自分の意識、自分をどう考えているかが反映されること。

片付けは、意識を整理して選択することであること。

モノを主体に考えるのではなく、自分を主体に考える。

自分がどうしたいのかをまず知ることが必要。

で、す、よ、ねー。

うちの母は、典型的な捨てられない溜め込みびとで、わたしが育った家は常にカオスだった。荒んだ空間は、心身にかなり大きな影響を及ぼします。当然ながら、コミュニケーションも不全の家でした。

モノと対話ができてない空間では、人との対話もできないんですよねー。

思うんだけど、戦後、高度成長期を経た昭和後期の家庭は、程度の差はあれ、どこのお宅でも、小さな家にモノがあふれかえっていたのではないでしょうか。

戦後すぐのモノのない時代を経て、昭和40年代以降に生まれて育った人は、モノでぎっしり埋まった狭い家を当たり前だと思って育ってきたのだと思います。

日本の住空間には、もともと、なにもない、なにも置かない、布団もお膳も使ったらすぐ片付ける、緊張した空間の美意識があったのに。

明治から第二次大戦までは、すこしずつ文明開化の洋風を取り入れながらゆるやかに変化して大正モダンなども生んだものの、敗戦とそのあとの爆発的な高度成長で、住空間も、日本人の精神的なよりどころも、美意識も、すっかり混沌のなかにうもれてしまったんだと思うのです。

日本に帰って成田から電車に乗ると、田んぼがなくなってきたあたりから始まる町並みの醜さにつくづく見とれてしまうのだけど、あのカオス。

『千と千尋の神隠し』にでてくる「カオナシ」のごとく、なにもかも、西洋のものも世界じゅうのものも手当り次第に取り込み、自分のものにしようとして食いつくすエネルギーが、昭和の後半の日本にはみなぎっていました。

その結果が、モノであふれかえったリビングであったり、まったくまとまりのない何の折衷なんだかもわからない建物がひしめく町だったんだと思います。

20世紀も末になって、バブルもはじけたあたりから、だんだんとそれに気づいて、なんとかしようとと思う人たちが増えてきて、断捨離やコンマリさんの需要がうなぎのぼりっていうことなのでしょう。 

 


2017年に行ったときの東京。

先日『天気の子』を観たら、話に内容よりもなによりも、東京の街があまりに懐かしくて涙でた。
『君の名は』よりずっと面白かったです。画面がきれいだし、話も楽しめた。

「人柱」というものの解釈がめっちゃメルヘンなのにちょっと驚いたけれど。
遠野物語的、日本神話的、土着の神様的な要素を、殺菌洗浄して小綺麗にパッキングしましたって感じでした。それが悪いとは思いませんが、すこし物足りないのも事実。

でもあの新宿界隈の描写の正確さったら。
それだけで2時間眺めていられる。密度の高い画面のクオリティに感動しました。

やましたひでこさんの断捨離ビデオに感化されて、ちょこちょこと身の回りのモノをまた減らしはじめました。食器や洋服や書籍や。

モノがひとつなくなると、その分だけ、少しピントが合うようです。



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